趣味の文芸

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球体 ①

この記事は2019/3/30 アメブロ 「くるみうりのブログ」に掲載したものです。お猫生活ブログの中で書いておりましたが、文芸ブログ開設に伴い移転させています。 *********************************************************************************

 

2019年、私の遅咲き大知君ファン生活が始まったわけだが、年明け間もない1/20とんでもないニュースが飛び込んできた。「天皇陛下在位30年記念式典での歌唱」発表である。ただでさえ毎日動画を見て興奮気味だった私は、1人でさらに盛り上がった。「天皇陛下の前で」という現実感が日に日に高まり、2/24が近づくにつれ自分でもおかしいくらい落ち着かなくなった。色々頭に考えが駆け巡って止まらないのである。今回このように大知君について書き始めたのは、この時生じた思いがベースになっている。その時私の思考の中心にあったのが「球体」だったのである。

 

 私が初めて「球体」を視聴したのは、2月に入ってからだった。作品紹介欄に「全編日本語で綴られた詞は感情と情景を描写する旋律と編曲に紡がれる。文学的要素が融和する世界に誇りうる美しい国産音楽作品の誕生。」と解説のあったこの作品を、期待と共に視聴した。1度、2度、3度視聴した。毎日のように視聴し、式典1週間前には突拍子もない考えがひらめて頭から離れない状況に陥った。それは「式典直後は大知君に興味を持った人々に「球体」を紹介する絶好の機会だ。」という考えだった。無論私にできることなど無く、式典は感動のうちに無事に執り行われ、私に日常が戻ったのであるが、なぜそう思ったのかを考える日々が始まった。あちこちのサイトで「球体」についての高い評価を目にし、うれしく思うのだがまだ何か足りない、という気持ちが消えずもどかしく思った。ささやかでもいいので書こうと決め、ブログを開設したのが3/1であった。

 

 最初にお断りしたいのは、私は音楽関係者の方々による音楽的な評価を尊敬をもって拝読しており、そこが問題ではないという事である。また、私は大知君のファンの方々が大切に思っている、大知君の今までの音楽の路線より「球体」が優れていると位置づけるつもりも一切ない。ただ、「球体」に関しては音楽作品としてだけでなく、総合的なエンターテイメント作品、いや新しい総合表現作品として論じられて欲しいと願うのである。そう願ってはいるが、私は素人であり専門分野があるわけではない。なので、

笠原瑛里氏、近藤 真弥氏、Imdkm氏、耒仁子氏等専門的見地から解説された方々の遠い背中を追う気持ちで書いている、という事をここで申し上げておきたい。

 

まず「球体」とはどういう作品であるか? 商品的にはCDショップのJPOPの棚に並べられて販売されている音楽CDである。だがそれだけの商品ではない。パッケージの段階ですでに、「音楽CD」「歌詞=詩集」「歌・ダンス・映像・演技=パフォーマンスDVD」が一緒に収められている。

文字・音楽・歌唱・ダンスパフォーマンス・映像により、総合的に詩文学世界を表現する作品であると、私は「球体」を定義する。このような作品がかつてあったであろうか?

 

 「球体」を聴いた後、私が最初に思い出したのは、細野晴臣氏の「銀河鉄道の夜 サウンドトラック」である。抒情的で美しい短編音楽集という意味でも、エレクトリックサウンドが主に選択されているという点でも、マニアックで一般受けが難しいという面でも共通点があると思う。だが、「銀河鉄道の夜 サウンドトラック」は、世界のホソノが依頼されて作った作品である。Jポップの若手アーティストが自身のアルバムとして簡単に作れる作品ではないと思った。現在の音楽業界でそれをやってのけている。私の想像だが、長年培ってきた大知君とスタッフ、ミュージシャンの方々のチームのレベルの高さとチームに対する会社の信用度が高かったこと、Nao'ymtさんと大知君との信頼関係、二人のこの作品とに対する圧倒的な熱量が制作を支えたのではないかと思った。音楽作品のみならず、映像作品、ライブと、前例のないこんなに新しいコンテンツを打ち出すための労力を思うと、この作品の発表まで携わって下さった関係者の方々に感謝の念を覚える。そしてこのような仕事を若い人が成し遂げた事が、縦割り行政的に細分化されたシステムの中で、見過ごされそうな状況が放置されてはいけないのではないかと思ったのである。

 

 「球体」は「円」という持続性・回帰性の象徴を中心に、「ただいま」から「おかえり」までの永遠の一瞬というネバーエンディングストーリーを描いた作品である。そして見失った君、見失った自分を探す物語でもある。作品の随所に日本的な研ぎ澄まされた感性が光っている。効果的なサウンド、舞台の上の懐かしい街燈のある風景、降り注がれるように聴こえる歌声、そして文字の力。私はこの商品のいわゆる「歌詞カード」が美しく装丁された1冊の詩集である事に着目した。普段目にすることのない古風な漢字、選び抜かれた繊細な言葉で物語が紡がれている。余白と行間でイメージを受け手にゆだねる。詩集として出版されても遜色のない仕上がりになっている。私は映像作品を鑑賞しながらこの「詩集」も手元に置いて、文字を眺めた。両方をインプットすることで、相乗効果が生まれるような感覚を覚えた。

 

 反論される方もおられるかもしれないし、そもそも制作側の意図と異なるかもしれないが、私は「球体」は詩文学表現手法を前進させ、舞台表現手法をも前進させた、という可能性を申し上げたい。そういう考えに至った理由を次回具体的に挙げたいと思う。とは言っても「球体」はお堅いだけの「文学作品」だというのではない。エンターテイメントとしての魅力を成立させる一方で、静かに新しい試みが潜んでいる、そのような作品ではないかと思っている。この文章を読んでいただける可能性は限りなく低いが、JPOPのカテゴリーを超えて関係者の方々に「球体」が認知されてほしいと願っている。

 

 

                             玖海 有理