趣味の文芸

本のこと、テレビのこと、音楽のこと、思ったことを書いてます。

球体 ①

この記事は2019/3/30 アメブロ 「くるみうりのブログ」に掲載したものです。お猫生活ブログの中で書いておりましたが、文芸ブログ開設に伴い移転させています。 *********************************************************************************

 

2019年、私の遅咲き大知君ファン生活が始まったわけだが、年明け間もない1/20とんでもないニュースが飛び込んできた。「天皇陛下在位30年記念式典での歌唱」発表である。ただでさえ毎日動画を見て興奮気味だった私は、1人でさらに盛り上がった。「天皇陛下の前で」という現実感が日に日に高まり、2/24が近づくにつれ自分でもおかしいくらい落ち着かなくなった。色々頭に考えが駆け巡って止まらないのである。今回このように大知君について書き始めたのは、この時生じた思いがベースになっている。その時私の思考の中心にあったのが「球体」だったのである。

 

 私が初めて「球体」を視聴したのは、2月に入ってからだった。作品紹介欄に「全編日本語で綴られた詞は感情と情景を描写する旋律と編曲に紡がれる。文学的要素が融和する世界に誇りうる美しい国産音楽作品の誕生。」と解説のあったこの作品を、期待と共に視聴した。1度、2度、3度視聴した。毎日のように視聴し、式典1週間前には突拍子もない考えがひらめて頭から離れない状況に陥った。それは「式典直後は大知君に興味を持った人々に「球体」を紹介する絶好の機会だ。」という考えだった。無論私にできることなど無く、式典は感動のうちに無事に執り行われ、私に日常が戻ったのであるが、なぜそう思ったのかを考える日々が始まった。あちこちのサイトで「球体」についての高い評価を目にし、うれしく思うのだがまだ何か足りない、という気持ちが消えずもどかしく思った。ささやかでもいいので書こうと決め、ブログを開設したのが3/1であった。

 

 最初にお断りしたいのは、私は音楽関係者の方々による音楽的な評価を尊敬をもって拝読しており、そこが問題ではないという事である。また、私は大知君のファンの方々が大切に思っている、大知君の今までの音楽の路線より「球体」が優れていると位置づけるつもりも一切ない。ただ、「球体」に関しては音楽作品としてだけでなく、総合的なエンターテイメント作品、いや新しい総合表現作品として論じられて欲しいと願うのである。そう願ってはいるが、私は素人であり専門分野があるわけではない。なので、

笠原瑛里氏、近藤 真弥氏、Imdkm氏、耒仁子氏等専門的見地から解説された方々の遠い背中を追う気持ちで書いている、という事をここで申し上げておきたい。

 

まず「球体」とはどういう作品であるか? 商品的にはCDショップのJPOPの棚に並べられて販売されている音楽CDである。だがそれだけの商品ではない。パッケージの段階ですでに、「音楽CD」「歌詞=詩集」「歌・ダンス・映像・演技=パフォーマンスDVD」が一緒に収められている。

文字・音楽・歌唱・ダンスパフォーマンス・映像により、総合的に詩文学世界を表現する作品であると、私は「球体」を定義する。このような作品がかつてあったであろうか?

 

 「球体」を聴いた後、私が最初に思い出したのは、細野晴臣氏の「銀河鉄道の夜 サウンドトラック」である。抒情的で美しい短編音楽集という意味でも、エレクトリックサウンドが主に選択されているという点でも、マニアックで一般受けが難しいという面でも共通点があると思う。だが、「銀河鉄道の夜 サウンドトラック」は、世界のホソノが依頼されて作った作品である。Jポップの若手アーティストが自身のアルバムとして簡単に作れる作品ではないと思った。現在の音楽業界でそれをやってのけている。私の想像だが、長年培ってきた大知君とスタッフ、ミュージシャンの方々のチームのレベルの高さとチームに対する会社の信用度が高かったこと、Nao'ymtさんと大知君との信頼関係、二人のこの作品とに対する圧倒的な熱量が制作を支えたのではないかと思った。音楽作品のみならず、映像作品、ライブと、前例のないこんなに新しいコンテンツを打ち出すための労力を思うと、この作品の発表まで携わって下さった関係者の方々に感謝の念を覚える。そしてこのような仕事を若い人が成し遂げた事が、縦割り行政的に細分化されたシステムの中で、見過ごされそうな状況が放置されてはいけないのではないかと思ったのである。

 

 「球体」は「円」という持続性・回帰性の象徴を中心に、「ただいま」から「おかえり」までの永遠の一瞬というネバーエンディングストーリーを描いた作品である。そして見失った君、見失った自分を探す物語でもある。作品の随所に日本的な研ぎ澄まされた感性が光っている。効果的なサウンド、舞台の上の懐かしい街燈のある風景、降り注がれるように聴こえる歌声、そして文字の力。私はこの商品のいわゆる「歌詞カード」が美しく装丁された1冊の詩集である事に着目した。普段目にすることのない古風な漢字、選び抜かれた繊細な言葉で物語が紡がれている。余白と行間でイメージを受け手にゆだねる。詩集として出版されても遜色のない仕上がりになっている。私は映像作品を鑑賞しながらこの「詩集」も手元に置いて、文字を眺めた。両方をインプットすることで、相乗効果が生まれるような感覚を覚えた。

 

 反論される方もおられるかもしれないし、そもそも制作側の意図と異なるかもしれないが、私は「球体」は詩文学表現手法を前進させ、舞台表現手法をも前進させた、という可能性を申し上げたい。そういう考えに至った理由を次回具体的に挙げたいと思う。とは言っても「球体」はお堅いだけの「文学作品」だというのではない。エンターテイメントとしての魅力を成立させる一方で、静かに新しい試みが潜んでいる、そのような作品ではないかと思っている。この文章を読んでいただける可能性は限りなく低いが、JPOPのカテゴリーを超えて関係者の方々に「球体」が認知されてほしいと願っている。

 

 

                             玖海 有理

やのとあがつま

こんばんは。

今日はまた春先のような暖かさでした。

窓の外で梅の花がたくさん咲いていました。

 

 今日のお題は、朝放映された「題名のない音楽会」のゲスト矢野顕子さんと上妻宏光さんのユニット名です。ピアノと三味線で民謡ベースの音楽という内容でした。

よかったです。かっこよかった~

上妻宏光さんの三味線、歌声も素敵でした。他もいろいろ聴いてみたいです。

5月の上野でコンサートがあるのですが、チケット抽選当ってほしいです。

 

 今日は矢野さんについて少し書かせてください。

彼女の作る歌詞はすべて彼女の心が感じて彼女が言いたい事。

今日は最後の曲で「でも好きなの~」でした。乙女です。

中島みゆきさんとか松任谷由美さんが「みんなが聞きたがってる言葉」を掴む人であるのに対し彼女は自分の思ったことがメイン だから「でも好きなの~」「ラーメン食べたい」になるわけです。

「人は誰でも」みたいにかっこいい歌詞はなんか身にそぐわない感覚があるのかもしれないです。

ですが率直な明るさと地に足ついたたくましさがあります。中島みゆきさんとか松任谷由美さんは皆さんご存じの通り国民的なシンガーソングライターで私も大好きです。好きな曲たくさんあります。ですが男性のプロデュースで成功した側面があります。セールス的には及ばずとも矢野顕子さんがメインのプロデューサーなしに今なお現役バリバリで歌って演奏し創作を続けていることはすごい事だと思うのです。とにかく1人の人間の中に入っている「音楽性」の埋蔵量という点でこの人は圧倒的です。私が30年以上聞き続けてる理由です。

 

 今日は演奏されませんでしたがデビューアルバム「Japanese Girl」に収録された「ふなまち唄 Part1」「ふなまち唄 Part2」はそんな彼女がまだ10代で作った名曲で、もはや「民謡」のジャンルに分類されても不思議ではないくらい完成されたパワーに満ちた楽曲です。

 

歌詞はこれだけ

 帰りくる船は帰るやいなや海のにおいを壁にあずける

 まだ来ぬ船は帰るやいなや海の藻屑に壁見ぬうちに

 

たったこれだけの歌詞が繰り返され、ピアノや太鼓と演奏されていく中で日本人の原風景みたいな映像が心に湧き出てきます。喜怒哀楽、生きること、死ぬこと、無数の生命が輪廻すること、そいういう大きなうねりみたいなものを感じます。彼女が意識しているかはわかりませんが、この曲で表現されているのはこの世界で起こる「森羅万象」だという気がします。

www.youtube.com

 

よかったら聴いてみてください。

 

                          玖海 有理

 

 

 

 

 

中高年R&Bの良さを知る

この記事は2019/3/24 アメブロ 「くるみうりのブログ」に掲載したものです。お猫生活ブログの中で書いておりましたが、文芸ブログ開設に伴い移転させています。 *********************************************************************************   
 
 

 大知君遅咲きファン生活を爆走する私が、YouTube鑑賞の次に始めたのが、過去のアルバムチェックであった。いくつかのアルバムを入手して仕事中も買い物中もウォーキング中も聴きまくった。ここでまたしても仰天する事になるのである。

 

 私は30代になってからは、あまり新しいアーティストのアルバムを聴かなくなっていた。基本的にピアノの音が好きで、普段はピアノ関連のポップス、ジャズ、クラシックを中心にその時の気分でチョイスしている。MediaPlyerを確認したらR&BCrystal Kayが1枚あるだけだった。他のアーティストのアルバムを聴かなくなったのは、私が大人になって若い時ほど音楽を必要としなくなった事と、やはり広い意味でのJ-Popのアルバムで、聴きごたえのある物が少ないと感じた事が原因だと思う。アルバム1枚全曲の平均点を高くキープできるアーティストはそれほど多くないと思う。特に私たちの世代はユーミン、サザンを筆頭に並外れたアーティストを思春期に聴いているので、なおさらそう思うのかもしれない。

 

 また、私はR&B関して言えば、日本の女性シンガーの独特の歌声、ちょっと喉の奥に力が入ったような歌声が、それは1つのテクニックで好きな方は多いと思うのだが個人的に好みではなくて、アルバムを聴くに至らなかったように思う。では海外のR&Bはどうかと言えば、確かに本場物は本物なのであるが、R&Bという音楽は何かこちらに「ねえ聴いてよ~」と語りかけて来るような感じがあって、言葉が解らないと何だか不完全で満足できないのである。これがロックやポップスなら意味がわからなくても「イエーイ」とノリで聴けてしまうので不思議だとは思う。歌声が「切な気」に聴こえるせいだろうか。あるいは独特のビートが関係しているのかもしれない。

 

 そんなR&B初心者の私が大知君のアルバムを聴いたのであるが、予想以上の出来栄えに「本当によくできている」と驚いた。通して何回聴いても飽きが来ないのである。繰り返し言うがシングル発表しない曲のレベルを何曲も高レベルに仕上げることはたやすい事ではないと思う。いいアイディアはここぞという場面まで取っておきたいと思うのが人情である。加えてCDが売れなくなった今の時代、製作費等レコーディングを取り巻く色々な条件が業界最盛期よりも厳しいのは間違いないと思う。ところが大知君のアルバムの中の1曲1曲を聴いて思うのは、まず大知君の歌唱力に合わせて難しくて面白い曲が制作される、それを大知君が精いっぱい歌って、それを聴いたスタッフ・ミュージシャンの大人たちも発奮して仕上げたのではないかという過程が想像できるのである。こうして丁寧に作られた作品全体から浮かび上がってくるのは、「地道さ」と「真面目さ」という底力である。大知君本人はおそらくさらりと「好きな事だから」と言うだろうが、こういう年月を積み重ねて現在があると、感動と共に改めて認識を新たにしたのだった。

 

 ファンの方ならとっくにご存知だと思うが、大知君のアルバムを聴いて次に気が付いたのは、特に「The Entertainer」以降より意識的に様々なジャンルの楽曲でアルバムが構成されているという点である。彼の力量がそれを可能にしている。R&B、ロックのみならず、カントリー調、サンバ調などである。そして楽曲ごとの大知君の多彩な表現力、これが大知君のアルバムの大きな醍醐味であるという事である。つい最近気が付いて「すごい!!」と脱帽したのは、アルバム「FEVER」である。5曲目 MAKE US DO → 6曲目 One Shot  → 8曲目 I’TSTHE RIGHT TIMEにかけて連続で聴くと彼の表現力の豊かさがよくわかる。サウンドエフェクトの効果もあるが彼はきちんと解釈した上で、その曲にふさわしいキャラクターで歌っている。コーラスまで個性が出ている。キャラクターとしか言いようがないのでこの言葉を使うが、いわゆる「声優さん」の歌唱表現とは違う。なんて言うのか力みがなくとても自然で、小手先ではない感じがしてそこが本当にすごい。抜きん出ているように思うのだ。演じるという言葉で思い出されるのは故藤圭子中森明菜であるが、彼女たちは楽曲の役に身を捧げて、体を張って圧倒的な世界を表現し、人々の記憶に残った。男性では、キャラクターによって楽曲を表現したシンガーとして、米米CLUBのカールスモーキー石井が思い出される。彼の場合はあえて「小手先感」を武器にして、「カールスモーキー」=煙に巻くという自身のキャラクターを表現していた。客観性という点で大知君と共通点はある。だが、大知君のような表現をする歌手を今は思いつかないのである。

 

更に11曲目 Supa Dupa Paper Plane → 12曲目 Testify → 13曲目 ふれあうだけで~Always with you にかけて、今度は葛藤する若者の内面の移り変わりが3部作として配置されていように私には思えるのである。その歌詞の内容は当時の大知君の気持ちが投影されているようで、重量感があり思索的であり、最後の「ふれあうだけで」の感動がより大きくなる流れになっているように思える。これはこの曲順番にイヤフォンでじっくり聴き、歌詞を味わっていて突然気が付き鳥肌が立った。そして14曲目 music というグランドフィナーレ、あまりにも華麗である。本当にそういう制作意図があったかどうかはわからないが、聴きこむうちに色々深読みができて面白く、興味が尽きないのである。

 

R&Bからだいぶ話がそれてしまった。本題へ戻るがR&Bとは何かをWEBで色々調べて私なりにまとめた定義で今回はご勘弁いただきたい。R&Bの最大の特徴はやはり、歌詞をリズムとフェイクというシンガーの技で歌い上げるという事になるかと思う。ブロガーの耒仁子さんが本当に詳しく解説されているが、大知君の日本語はとてもクリアで、リズムが声から伝わってくる。まずそこで気持ちが良くなる。日本人には難しいはずのフェイクも自然に言葉に乗って波のように伝わってくる。このリズムと歌声のウェーブに揺られる感と、日本語の歌詞の世界に存分に浸れる安心感、そしてサビでの歌声とセルフコーラスの重なり合う声の響きに包まれる感、ついにR&Bの核心に触れその良さに開眼したのである。特に大知君のセルフコーラスは、各パートの音色が豊かで、低音、中音、高音が一つになって響き合うと、私が愛してやまないピアノの音に包まれているのと同じ種類の安らぎ感があるのである。一時日常の雑事を忘れて、音のゆりかごに身を任す、やさしいウェーブで心のマッサージ、R&Bってヒーリング系だったのね、と解釈したのであった。ちなみに今一番のお気に入りR&Bは「4am」である。

私は素人であって専門家ではない。あくまでも私個人の感想である。R&B評として正しいかどうかはわからないが、こういう発見ができた事で満足なのである。

 

 今回もまた長々と述べてしまったが、私は気に入ったアルバムは最低でも半年程度かけてじっくり聴きこみ、咀嚼するタイプである。まだまだ色々と発見がありそうで、それが楽しみである。まとめとして思うことは、1曲毎、そしてアルバム、作品としての「姿勢の正しさ」と、「チームワーク」が作り上げた作品のすがすがしさである。この20年以上ポップスは矢野顕子Tori Amosという突き抜けた個人の才能が作った音楽を聴き続けてきて、さらにこの10年以上は個人で仕事をしていたので、周囲に無頓着だったかもしれない。今回出会った大知君の才能は天才的だが、作品は良いバランスで仕上げられていて、大事なことを思い出させてくれた。いい大人になって「みんなで協力して1つの作品を作り上げる、チームワークって大事だな」と恥ずかしながら感じ入った。そしてなかなか知名度が実力に伴わず、ファンがやきもきしている大知君だが、この着実さをみると「全然大丈夫」と思うのである。この道のりを歩んできた今の大知君を観ることができる事に喜びを覚える。それくらいいい具合に熟成している大知君だと思う。

三浦流家元

この記事は2019/3/17 アメブロ 「くるみうりのブログ」に掲載したものです。お猫生活ブログの中で書いておりましたが、文芸ブログ開設に伴い移転させています。 *********************************************************************************   

 このようなタイトルにしたからと言って、日本の古典芸能への見識が私にあるわけでは決してない。むしろ2時間サスペンスドラマに対してただならぬ造詣の深さがあるせいなのであるが、大知君のYouTube動画を見て踊る大知君に家元的な存在感を感じたのは事実である。そして遅咲き大知ファン生活を始めた私が洋楽体験の次に驚愕したのは、やはりYouTube動画であった。多くのファンの方々同様に重度の中毒を発症し、禁断症状を抑えるべく毎日繰り返し「Right Now」や「Replay」など片っ端から動画を観まくるようになった。

www.youtube.com

 

 まず大人世代として声を大にして申し上げたいのは、今の時代のダンサーさんたちは凄い!!凄すぎる!!という事である。私が小学生だった時代、芸能界におけるかっこいいダンスの最高峰は「ピンクレディ」だった。当時世の中に今ほど難しいダンスはなかったと思う。その後ダンスの進化が加速したのはマイケル・ジャクソンが名作「スリラー」と共に世に現れて以降ではないだろうか。みるみるうちに日本のアーティストのダンスレベルが上がってきた。この文章を書くにあたって現在のダンスの映像を少しばかり見たのであるが、その難易度の高さ、表現の多様さ、身体操作の複雑さ、どれをとってもすごくて見入ってしまう。私などにはもう十分に見える技術に日々磨きをかけて進歩させている。そしておそらく健康や身体に対して節制とメンテナンスを常に怠らないのだと思う。そういう努力を補って余りあるほどの「踊る幸せ」という私の知らない世界があるのだと思う。ダンス門外漢である私がダンスについて語る不遜は承知であるが、私のこの溢れるリスペクトを汲んでご容赦いただきたい。

 で、大知君に戻るが、大知君の動画がこれほどまでに見る人を惹きつけ、ファンの方が言うように中毒性があるのか少し考えてみたい。ダンステクニックがすごいというのは当然なのでそれ以外で、という事である。

 

 第一におそらく誰もが感じる事かもしれないが、大知君のダンスには「ドヤ感」や「仲間内感」が全くない。アウェーな雰囲気に敏感な大人世代でもとても楽しく観られるのである。子供時代から芸能人である彼は、早い時期に「うまく踊れる自分を見せたい」段階を卒業していると思われる。エンターテイメントとして提供するという姿勢に徹していて、周りのダンサーもそのスタンスを継承している。その事が視聴者が繰り返し見ても喜べる要因の一つになっているのではないかと思う。ダンスが若者のやり場のない感情の昇華の有効な手段である事は理解していても、ストリート系と言うのかヒップポップ系と言うのか男子系のダンスに対して偏見があり、敬遠しがちだった私が真っ先に感じたことだった。

 

 次に挙げたいのは大知君とダンサーさんとのコンビネーションのレベルの高さである。

s**t kingz の皆さん、Shingo Okamotoさん、PURIさん、SHOTAさんなど、長い方だと10年以上ご一緒されているとか。シンクロの完璧さはもちろんだが、あうんの呼吸というか、同じ曲のパフォーマンスが、現場現場で最適なチューニングでぴたりと決まっているように見えるあたり、他のアーティストではちょっと無い見応えがある。特筆すべきは大知君の左右にShingo OkamotoさんとPURIさんが入った時の、お二人の発する気が半端ない。目立とうとしているというよりむしろ護衛に近い感じがする。まるでSPのような黒澤映画のようなオーラを感じて目が離せない。こういうダンサーさんのレベルの高さがトータル全体のレベルを引き上げている。大知君が三浦流宗家家元ならダンサーさんは宗家を守る三浦陰流の隠密集団のようではないかと妄想が暴走する。大知君やダンサーさんはこれだけの身体能力をお持ちなのだから、忍者のアクションかっこいいだろうな~見たいなあ~と、妄想が止まらないのでこの辺でやめておく。

 

 最後に述べたいのは、ダンス表現の繊細さについてである。大知君の楽曲は1曲1曲楽曲ごとの個性がくっきりと際立っていて、エンターテイメントとしてのテーマがしっかり存在している。そのテーマを深いレベルで解釈し、コンセプトに合わせたパフォーマンスに仕上げるという点でとても優れていると思う。かっこいい事がメインだが、ただかっこいいダンスという振り付けではない。私が一番それを感じたのは最高難度のダンスの1つと言われる「Cry&Fight」である。

 この曲のテーマはタイトルのCryでもFightでもなく「困難に立ち向かう静かな決意」と言うべきものではないかと思う。「静かな」がとても重要で、ただの「決意」ではない。私にはこの曲のダンスは葛藤からの決意という内面を描写しつつ、漂う静けさをも表現したパフォーマンスに見える。ダンスそのものは激しい動きが続くのだが、ジャンプした後の足の置き方のソフトさとか、効果的な動作の停止とか、無駄な動きがないとか、極力「頑張っている」感を出さないとか、見れば見るほど細やかに作られている。全員の呼吸さえ静かに整えられているような印象があり、そして何より表情の穏やかさが静けさを感じさせるのである。圧巻なのはラスト手前の間奏部分、音楽があっても既に「無音ダンス」のような印象がある。この楽曲の振り付けはShingo Okamotoさんとの事であるが、最高難易度とダンスと楽曲のコンセプトを両立させる力、素晴らしい才能である。

 

 いろいろ書いてきたが、大知君とダンサーさんのパフォーマンスはとにかく「理屈抜き」ですごくてカッコよくて気持ちいい、というのが一番しっくりくる。まるで重力から解き放たれたような軽いステップで、視聴者にそう思わせてくれる。おそらく私たちが想像する数倍、数十倍も細かな様々な試行錯誤、作っては直しを繰り返し、練習を重ねて世に出された作品であるが故、何回か見た程度では決して視聴者を飽きさせない、奥深い魅力を備えているのだと思う。そしてこれだけ大勢の人を虜にする大知君の作り上げたダンススタイルは、一つの「流派」として100年後の世に残っているかもしれない、といささか壮大な未来を提示する形でまとめたい。大知君のダンスと言えば、の「色気」についてはまた別の機会に考えたいと思う。

 

 最後にダンスリハーサル「Right Now」1000万回視聴達成、おめでとうございます。

達成直前の追い込みにちょっとだけだが貢献できてとても嬉しい。

 

                              玖海 有理

大晦日のBe Myself

この記事は2019/3/09 アメブロ 「くるみうりのブログ」に掲載したものです。お猫生活ブログの中で書いておりましたが、文芸ブログ開設に伴い移転させています。 *********************************************************************************

 三浦大知君にはまった時の事から大知君シリーズを始めたいと思う。読者のいない段階ではあるが既にシリーズ化は決定している。

 

 2018年末の大晦日の夜、元旦の用意をしながら紅白を観ていた。日頃音楽番組をほとんど観ないため、初めて「U.S.A.」をフルコーラス聴いて喜んだりしていた。そして私は日頃男性ボーカルの楽曲はほぼ聴かないため、若くてR&Bの大知君は私の守備範囲外の人であった。

 

 よく分からないジャンルの人だった大知君が歌い始めた。予想とは全然違う音楽が広がった。日本語なのに新鮮な響きがする。 サビに向けて徐々に期待感が高まる。「やがて目覚め」で始ったフレーズを聴いて驚いた。歌声の美しさもさることながら、完全に日本語の歌詞を歌っているのに、大知君に先入観の無い状態の私の脳が曲を洋楽と認識というか錯覚しているのである。すごいと思った。正直こういう体験は初めてだった。日本人がロックやポップスを演奏する時必ずぶつかる壁、「洋楽と微妙に違う問題」に答えを出した日本人がとうとう現れたと言えば大げさかもしれない。だが何とかして洋楽らしさを出そうと、巻き舌を使ったり喉を潰したりする日本人アーティストを見てきた大人年代の私にとっては、感慨もひとしおなのである。そして激しく踊りながら「自分でいたい」と歌い放った後のなんとも深みのある笑顔で、ファンの方々の言う大きな深~い大知沼にどっぷりとはまったのであった。

 

 この楽曲の斬新さについては、クレスウエアの奥野賢太郎氏が

note.com

で詳しく解説されて、要は日本語は母音が多く、同じ意味では英語より言葉数が多くなってしまい、印象が英語のようにならないというお話で、これを読むと「Be Myself」の新しさが良くわかるのでお読みいただきたいのだが、私も私なりに考えたことを述べたい。

 

 奥野氏が「明らかに「どこにどの子音を並べると気持ちよく聞こえるか」を設計した上で作られていると感じます。」述べているのであるが、この点全く同じことを感じていて、「やがて目覚め」の「て」と、「夜の背まで」の「背」と、「すべてを開放」の「て」のTe、Seの響きがとてもいい。他にもラスト直前の「正解」「隠せない」「滑り台」「果てしない」のάɪ もある。この楽曲の1番と2番更にラストのサビの歌詞は全く同じである。これは2番のサビ歌詞は変化をつけるという一般的な作曲ルールに沿っていない。この音の並びが製作者の狙いを達成していて完成されたものであるからだと思われる。ただこれはおそらく歌う技術があっての話ではないかと思う。声量と発音と何よりリズム感の確かな大知君だからこそ作られた曲だと感じた。このメロディーに隙間の多い楽曲を通しての大知君のリズム感に、R&Bに疎かった私は驚愕した。また、大知君の日本語の歌い方は、絶妙なバランスで英語に使われる有声音、無清音を日本語の単語の中で使っているように聴こえ、それがまた洋楽らしさの一因と思われる。それなのにクセがなく素直な印象があり、総合的には彼の人柄と共にポジティブなメッセージを伝えることに成功している。私がその後この曲を鬼リピしたのは、洋楽っぽいからではない。楽曲に力があるからだ。

 

 次に瞠目した点は、歌詞と楽曲そのもののセンスの良さである。暗から明へ象徴的なワードが畳みかけるように続く。それがバックサウンドと共に感覚に訴えてくる。全体と通してクールさと熱さのバランスがいい。サウンド面ではドラムやシンセサイザーの音など他で指摘されているように懐かしさのある音使いも効果的に思える。

Nao'ymt氏は職人的に聴覚への効果を計算しつつ、曲の世界観をまとめ、鮮やかに詩情を紡ぎだしている。三浦大知氏とNao'ymt氏、若い世代の実力のあるアーティストと出会え、幸せのうちに2018年が終わり、2019年大知FeverYearの幕開けを迎えたのであった。氏は職人的に聴覚への効果を計算しつつ、曲の世界観をまとめ、鮮やかに詩情を紡ぎだしている。三浦大知氏とNao'ymt氏、若い世代の実力のあるアーティストと出会え、幸せのうちに2018年が終わり、2019年大知FeverYearの幕開けを迎えたのであった。

ja.wikipedia.org

 

 最後に、私は2017年の紅白のパフォーマンスも観た。今なら良さがわかるのだが、曲もダンスも「若者」すぎて、すごいとは思ったもののその時はあまり理解できなかった。非常に残念である。その点今回の「Be Myself」は幅広い年代層に受け入れられやすく、大知君の魅力をアピールすることに効果があったのではないかと思う。余談だが、「Be Myself」の衣装もなんとなく1980年代のDCブランドを彷彿とさせ、大人世代としては抵抗がなかったのであった。これからも色々私なりのテーマを見つけて大知君について書いていきたいと思う。

 

                             玖海 有理

「翔んで埼玉」の次はクワコーを推したい件

この記事は2019/3/03 アメブロ 「くるみうりのブログ」に掲載したものです。お猫生活ブログの中で書いておりましたが、文芸ブログ開設に伴い移転させています。 *********************************************************************************

 

 今「翔んで埼玉」が話題沸騰中である。こちらは映画もさることながら魔夜峰央氏ご本人のメディア登場に驚いた。あの「パタリロ!」の作者としての風格満点であった。

パタリロ!」は、アニメ化される前から当時中学生だった私の周りで熱狂的な信者に愛読されていて、あの歎美的な作風もあって作者は分厚い謎のベールに包まれていた。

あれから40年、ときみまろフレーズが思わず出てしまう。感慨深い。今日美容院で読んだ女性週刊誌に魔夜氏のインタビュー記事が掲載されていて、2011年頃からの出版不況のあおりで収入が落ち、いよいよ家が差し押さえかという時に「翔んで埼玉」があちこちで注目を集め、再ブレークによって負債を完済したそうである。埼玉に救われたと締めくくられていた。いい話だ。

 で、本題である。ぼんやり埼玉の事を考えていて思い出した。次はクワコではないかと。

クワコーとは、奥泉光氏著 「桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活」の主人公の桑潟幸一のあだ名である。大阪の女子短大から千葉の女子短大に再就職したクワコー先生と彼が顧問をしている文芸部の女子部員たちの物語である。

この小説はミステリーだが謎ときそのもには重きを置いていない。とにかく冴えない教師と元気な女子学生の日常がこの上なく面白い。このクワコーのモデルは失礼ながらおそらく作者であろうと思うし、作者が日々観察している「今時女子」の生態やら言葉がこれでもかと続く様子は久しぶりに小説で大笑いした。ユーモア度は「つかこうへい」レベルかそれを超えるものではないかと個人的に思う。古いが。

 だが根底には文学部教授である作者の地力が見事に光っていて、文体は漱石調であり「坊ちゃん」へのオマージュを感じさせるのである。この作品はかつてアレンジした形でテレビドラマ化されたそうであるが、残念ながら私は見なかった。是非原作に忠実な形での映像化を希望してやまない。

 

                             玖海 有理

追悼 橋本治

この記事は2019/3/22 アメブロ 「くるみうりのブログ」に掲載したものです。お猫生活ブログの中で書いておりましたが、文芸ブログ開設に伴い移転させています。

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 2019年1月29日 作家で評論家の橋本治さんが亡くなられた。

この何年かご病気なのは知っていたのだが、70才という若さでの訃報に接するとは思わなかった。

 20代の頃、何がきっかけだったのかはまり、「桃尻娘」シリーズや「恋愛論」などの評論を何点か読んだと思う。ずっと読み続けたわけではないが、今でもこの人の強烈な印象は色あせない。初めて垣間見た「天才=スーパーインテリジェンス」の世界だったように思う。東大在学中にイラストレーターとして世に出て、「桃尻娘」で脚光を浴び、その後も小説・評論・古典の現代語訳と幅広く活躍された。

膨大な知識量、縦横無尽な思考のみならず、彼は自分の足元を見つめることのできるスーパーインテリジェンスだった。そうでなかったらこういう形で追悼することはなかったかもしれない。

照れ屋なのか、偉ぶらず、何かちょっと反抗児みたいなキャラクターで世間へのアピーとしては少し残念で、多くの人が言うようにこの人のすごさはもっと認知されてほしい思う。

 この人の評論は頭の回転のまま書いているようなスピード感が半端ない。自分で猛スピードを出しておいて道を間違えて「あれ?」みたいな箇所が時々ある。その勢いに最初は圧倒されるわけだが、じわじわ滲み出してくる優しさというか愛情深さが読み手を引き付ける。

 書評が多い「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」という少女漫画論は私も読んだが、1979年当時少女漫画の評論というのは、斬新で異端だったのではないだろうか?この評論では彼の少女漫画への愛情放出度合が全開だった。こういうモードの彼の文章好きだった。正しい知性の使い方だと感じた。

ここ数年娯楽小説ばかり好んで読んでいたが、久しぶりに戻ってみようと思い、橋本治の古事記 を読み始めた。

ご冥福をお祈りします。

 

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 2020/01/21 追記

彼の死から1年、彼についての記事を度々目にする。彼のような「縦横無人の人」に対して人は少なからず圧倒され引け目を感じ無口になる。死後の記事の多さはそれを物語っているように思われてならない。

                          玖海 有理